イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

ñ の民

前回の記事は Fundéu の Palabra del año 2020 の速報ということで間が空きましたが、前々回の「ñ の言語」 の続きを見ていきます。

 

【起源】

さて、ラテン語nn, gn, ni + 母音という文字の組み合わせが後の時代のロマンス諸語の中でニャ行の音を表すようになったそうで、その内の nn が省略されて ñ という文字が誕生したということでした。他のロマンス諸語ではこのニャ行の音は n ともう一つの子音を組み合わせた二文字で表されているようですが、スペイン語ではなぜ nn を省略して新しい一文字を造ったのでしょうか?

「同一の文書内に写字生起源のこれら3種類の表記が同時に見られることもあり、一般化された規則はありませんでした。」とサラマンカ大学スペイン語学教授の José J. Gómez Asencio は言う。そんな中、nn という表記の使用を選択した写字生たちは n を一つだけ残してその上に vírgulañ のあの特徴的な帽子)を置いた省略形を用い始めた。
「これは羊皮紙を節約するため、そして写字に従事していた修道士の骨折り仕事をより容易にするための解決策でした。そのため、省略形の使用はこの時代には非常に一般的でした。」と Gómez Asencio は強調する。中世の時代に読み書きができたのはほとんど修道士だけであったため、彼ら写字生たちの仕事のおかげで過去の文化の大部分が伝承された。

nnñ としただけでは労力的には差はないように思えますが、ほんの少しだけ労力が短縮でき、時間も節約できると考えたのでしょうか?もしそうなら、それほどまでに写字という仕事が大変だったのかもしれませんね。

また、当時はまだ製紙技術が発達しておらず、文字で記録を残すために羊皮紙、いわゆるパピルスが用いられていたわけですが、この羊皮紙はかなり高価で貴重なものであったので少しでも節約するに越したことはないという背景も ñ の誕生に寄与したようです。二文字を省略して一文字で記すことで貴重な羊皮紙の一文字分のスペースを浮かすことが可能になったということですね。
つまり、この ñ の文字は当時の写字生たちが写字という仕事の労力と時間、そして材料の羊皮紙を節約しようとした結果生み出された彼らの努力の賜物と言えますね。


そんな ñ の文字ですが、もちろんすぐに浸透するはずもなかったようで、、、

ñ の勝利」
同一の文書内に eñe の音を表す3つの表記 (ñ, gn, ni + 母音) が使用されるという統一のない表記法が一般的となったことで混沌とした状況が生じた。この混乱は、カスティーリャ語における初めての規則確立を目指していた賢王アルフォンソ10世による正書法改正においてこの音の表記に ñ の文字が好ましい選択肢とされた13世紀まで続いた。その後、14世紀の間にこの ñ の使用が広まり、Antonio de Nebrija が1492年にカスティーリャ語における初の文法書に取り入れた。スペイン語ガリシア語では ñ (España) の文字が選択されたが、他のロマンス諸語ではこの硬口蓋鼻音の表記に対して独自の解決策を採用した。イタリア語とフランス語ではそれぞれ gn (Espagne, Spagna) が選ばれ、ポルトガル語では nh (Espanha) が、カタルーニャ語では ny (Espanya) が選択された。

どうやら、現代スペイン語にまで残った ñ の文字が誕生した後も、正式な正書法がまだ確立されていない時代であったため、依然として gnni と同等に使用されていたようです。確かに ñ はあくまで写字生たちが生み出した省略形に過ぎなかったわけなので、正書法がなければそれに従う道理もないですよね。
そして、正式に eñe の音を表す文字として選ばれたのが、スペイン語を躍進させたアルフォンソ10世の正書法改正が行われた13世紀。この賢王アルフォンソ10世はこのブログでも何度か登場したことがあり、その功績を調べる中で、現代正書法の基盤となった「アルフォンソ正書法」を作ったということを知りましたが、まさか ñ の文字が正式なスペイン語の文字として採用されたのがそのアルフォンソ正書法だったとは!また一つ、知識と知識が結び付きました :)

スペイン語では過去に x の文字が /ks/, /sh/, /j/ の三つの音を表していたせいでこの文字をどの音で発音するのか分かりにくかったり(→「未知数 X(前編)」「未知数 X(後編)」)、今度は /j/ の音を g, j, x の三つの文字で表すことができるのでこの音をどの文字で表記するのかややこしかったり(→「¿genjibre?」)と、常に正書法に混乱を抱えながら発展してきたことは承知していますが、この新しい文字もまた民衆を惑わせた経験があったんですね。何とも罪な文字ですネ ;)


次は、現在 ñ の文字が使われている言語について。

 「他にどの言語が ñ を使っているのか?」
ñ の文字と音(音素)はスペイン語に限ったものではない。イベリア半島ではガリシア語とアストゥリアス語でこの文字が使用されている。ラテンアメリカでもミシュテカ語、サポテク語、オトミ語、ケチュア語アイマラ語、マプチェ語、グアラニ語などといった多くの先住民言語がこの ñ を有している。しかし、どのようにしてこのスペイン語の文字が彼らのアルファベットに組み込まれたのだろうか?
「多くのネイティヴアメリカンの言語は、スペイン人が大陸に到達した16世紀まで表記体系を持っていませんでした。そして、この硬口蓋鼻濁音という強い音を有していた言語はスペイン語から ñ の文字を取ったのです。」とスペイン・バレンシア大学の教授 Julio Calvo は言う。実際、先住民言語の表記体系はそのほとんどがスペイン王国言語学者によって導入された。

当時「太陽の沈まぬ国」と称されるほどに巨大な大帝国を築いていたスペイン王国の影響力の大きさが窺い知れます。そもそも現在のラテンアメリカの大部分でスペイン語が話されていることがこの時代のスペイン王国の植民地政策に由来するのは世界史の授業で習いましたが、同時にこの ñ も海を渡ってアメリカ大陸に進出して現地の言語に取り込まれていたとは。
それにしてもスペイン語ñ の文字があってよかったですよね。原住民言語にもニャ行の音があったようですが、もしポルトガルがこの地域を支配していたら、今頃その音を表すために nh という二文字を要していたわけですから。

ドイツ・ブレーメン大学のロマンス諸語言語学の教授 Klaus Zimmermann によると「先住民たちが自分たちの言語に加えてスペイン語も扱えるようにするために、スペイン語の表記体系に従わせる勅令がありました。ñ の文字はスペイン語からの借用と言えるかもしれませんが、一方で無理強いであったとも言えます。なぜなら、その勅令は先住民自身が下したものではなく、言語学者またはスペインの文化・政治を背景とした教育的理由に従属した先住民が下したものであるからです。」
他にもキュラソー島のパピアメント語、フィリピンのタガログ語とチャバカノ語、赤道ギニアのブビ語、グアムのチャモロ語のようにスペイン語接触を持ったことのある言語もまた ñ を有している。

要するに、当時のスペイン王国に従属していた植民地は王国の言語政策に従う他なく、スペイン語が導入され、そこで植民地の国々にも ñ が入って彼ら自身の元々の言語にもこの文字が残っているということですね。


さて、次はそんな ñ が現代社会で直面した問題について。

ñ の敵 インターネット」
スペイン語は世界で最も普及している言語の一つである。セルバンテス文化センターの2016年のデータによると、スペイン語を母国語とする話者は約4億7200万人で、中国語に次ぐ世界で二番目に母国語として話されている言語である。にもかかわらず、ñ はデジタル時代において障害にぶつかったことがある。
1991年、当時の欧州経済共同体 (EEC) は ñ の文字がないキーボードの生産を提案した。その際、スペイン語圏の政治家や知識人を中心に反発され、その中にはノーベル文学賞作家 Gabriel García Márquez もおり、次のように述べた。

"La eñe es un salto cultural de una lengua romance que dejó atrás a las otras al expresar con una sola letra un sonido que en otras lenguas sigue expresándose con dos"
ñ は他の言語では依然として二文字で表記されている一音を一文字のみで表すという、他のロマンス諸語を置き去りにした文化的躍進である。」

確かにこれは大きな問題ですよね。ñ のないキーボードだと "¿Cuántos años tienes? - Tengo 20 años." という日常会話が "¿Cuántos anos tienes? - Tengo 20 anos." という常軌を大幅に逸した内容になってしまいマス。

日本のキーボードにはもちろんこの ñ の文字はないので、パソコンの使用言語をスペイン語にしたら L の右隣の「;」のボタンが ñ の代わりになります。もちろん、スペイン語圏の国のキーボードにはちゃんと Ñ は用意されていますが、スペイン語の正式な文字なのにキーボードにないなんてそんな仕打ちは悲惨ですよね。

ガブリエル・ガルシア・マルケス(久しぶりに聞く名前)もコメントしていることから結構大きな出来事だったことが窺えます。そして、他の言語では gn, nh, ny のようにニャ行の音を表すために二文字が必要なのに対してスペイン語では ñ の一文字で表すことができるという事実を「他のロマンス諸語を置き去りにした文化的躍進」と見事に表現しています。いつかどっかでオレも使おっと ;)

なぜスペイン語でこれほどまでに象徴的な文字に対して排除的な動きがあったのか?
「問題は、現在英語が世界の支配的な言語であり、そんな言語が ñ の文字も音素も持っていないことです。この世界では英語にないものはすべて奇妙に感じられるのです」と Calvo 教授は述べる。
1993年に文化的特徴の例外を認めるEUの基本的条約の一つであるマーストリヒト条約が発効されたことでスペイン政府はこの ñ を救うことができた。しかし、依然として ñ を含むメールアドレスを使うことはできない。

やはり世界は英語に支配されており、英語こそがスタンダードであると。でも、文字こそないけど new のようにニャ行の音はあると思うんですが。。。

それは置いておいて。基本条約が出てきてようやく解決するなんて、思っていたよりも ñ が直面した障害は大きかったようです。キーボードからの排除は逃れたものの、最後の文にある通り、確かにメールアドレスに ñ はないですよね。世界中でやり取りができるメールということで、スペイン語キーボード以外だと打てない ñ を含めるわけにはいかないと判断されてのことなので、こればかりは致し方ないという他ありません。

この記事は次の一文で占められています。

Porque no es lo mismo Mariño que marino, ni Peña que pena, ¿verdad?

 

【まとめ・結論】

ラテン語での nn, gn, ni +母音という組み合わせがロマンス諸語の中で ñ の音(硬口蓋鼻音)へ変化した。

スペイン語では写字生たちが仕事の労力と材料の羊皮紙を節約するために nn の二文字を省略して ñ の一文字を生み出した。

ñ は13世紀のアルフォンソ正書法において eñe の音を表す文字として好ましい選択肢と認められた。


ぼくが今いるメキシコにはテノチティトラン (Tenochtitlan) やヒリトラ (Xilitla) などのように tl の音が入っている地名が数多くあり、さらには「金物屋」を意味する tlapalería という語もあります。(スペインでは ferretería

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ぼくの家の近所にも tlapalería が。

どうやら、地名に入っている tl はナワトル語で「…の場所」を表すようで、例えばトラケパケ (Tlaquepaque) は語源的には「粘土の場所 (lugar de barro)」を表すそう。その名前通りにこの街の特産品は陶器らしいので納得のいく命名ですね。

この t + l の組み合わせってぼくらが使うような単語だと atleta くらいじゃないでしょうか?しかも、それが語頭に来たらより一層発音しにくくなりませんか?
他の言語にこの発音があるのかは分かりませんが、メキシコの原住民族であるナワトル語に由来する発音で、それを今でも使っているということから、ぼくはメキシコ人は「tl の民」だと思っています ;)