イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

ñ の言語

アラビア語に対してどんなイメージを持ってますか?右から左に文字を書いていくということはなんとなく知っている人も多いと思いますが、よく聞くのは「ミミズが這ったような文字」というもの。ぼくからしたらラテン文字筆記体の方がミミズっぽく思えるんですが。

つい最近、漢検の勉強をしてて知った言葉が「蟹行文字(かいこうもんじ)」。カニが横歩きするように、横書きする欧米の文字のことを言うそうで、今後は「アラビア語はミミズみたい」って言われたら「ラテン文字カニやで」って言ってやろうと思います(笑)
ただ、アラビア語も結局はラテン文字言語と同じ横書きなのでアラビア語は「ミミズであり、カニでもある」のかもしれませんね ;)

 

【きっかけ】

アラビア語には ﺽ という文字があります。カタカナで記すと「ダード」ですが、発音記号は d の下に点が付いて /ḍād/ となります。この音は日本語やスペイン語d の音よりも口の中で息をこもらせて重く発音します。このダードの音はアラビア語に特有であるのでアラビア語のことを「ダードの言語」、そしてアラビア語話者を「ダードの民」と呼ぶことがあります。実際はアラビア語の近親言語のいくつかには存在しているようですが。

この話を知った時、ぼくはスペイン語は「ñ の言語」であり、スペイン語話者は「ñ の民」になるんじゃないかと思いました。スペイン語一年生の最初の最初で文字と発音を習った際に、スペイン語アルファベットの中で唯一英語にはない文字 ñ がすごく特異に見えましたが、その特異性こそスペイン語を象徴する文字と呼ぶに値するのではないのでしょうか?ただ、そのためには他の言語では使われていないという条件が必要ですが、どうなのでしょうか?

ちなみに、いつもお世話になっている Real Academia Española にはツイッターのアカウントがあるのですが、そのアイコンはこちら ↓

f:id:sawata3:20201220095023j:plain

@RAEinforma

そう、ñ の文字!そもそも「スペイン (España)」「スペイン語 (español)」にも ñ が入っているように、やっぱりスペイン語を代表する文字はこの ñ なのです!

今回はこのスペイン語の象徴的文字について迫っていきたいと思います。

 

【起源】

今回のテーマは文字ということでまずは RAEOrtografía から探してみます。すると、5.4.2.2 の節にスペイン語の元となったラテン語のアルファベットには存在していなかった4つの文字として u, j, w とともに ñ について言及されていました ↓

ñ の文字は、ラテン語には存在していなかった新しい /ñ/ という硬口蓋鼻音‹1›を表すために中世スペイン語で選択された二重字 nn の省略形に起源を持つ
この二重語は習慣的に n 一つの上に波線を置いて省略して表しており、そこから正真正銘のスペイン語であるこの ñ の文字が生まれた
この文字はガリシア語とバスク語にも取り入れられた(5.4.2.2 Nuevas letras, ausentes del inventario latino originario)

‹1› 硬口蓋鼻音 (nasal palatal) ... 「にゃ・にゅ・にょ」の音。音声記号は [ɲ] 。

どうやら、この"スペイン語を象徴する文字"は地理的に隣接する言語であるガリシア語とバスク語へ導入されたようです。元は nn という二文字でこのニャ行の音が表されていたということを知ると、その形的に片方の n が縮小されてもう片方の n の上に乗ったように見えてきます。(もしかしたらどっかでそう聞いたことあったかも。。。)

また、Dpdñ のページにもその成り立ちについて書いてありました。

ラテン語における子音の組み合わせ gn, nn, ni はロマンス諸語の中で硬口蓋鼻音へ変化した
ロマンス諸語の各言語ではこの音を表すために異なる表記が決められていった :イタリア語とフランス語 gnカタルーニャ語 nyポルトガル語 nh
中世のカスティーリャ語では nn という二重字を選択したが、習慣的に n の上に波線を置いて省略して表しており、そこから ñ の文字が生まれ、ガリシア語にも取り入れられた(ñ. 2.)

ラテン語はニャ行の音を持っていなかったと上の引用でありましたが、この音はラテン語での gn, nn, ni という組み合わせに起源を持つようです。そしてその音を表すためにスペイン語では ñ という新しい文字が誕生したんですね。
他方、他のロマンス諸語では gn, ny, nh のように二文字で表しているようです。アルファベットではないですが、日本語も「ニャ・ニュ・ニョ」のように二文字(もしくは一文字半?)を要します。ということは、この硬口蓋鼻音を一文字で表せるスペイン語の ñ は非常に稀有な文字なのかもしれません。この点でもまたスペイン語という一つの言語を象徴する文字と見なすに値すると考えられます。


ところで、ñ の上にあるニョロニョロの記号って何と呼ぶんでしょうか?今までその名称を気にしたことがありませんでしたが、この文字を主役にして記事を書く以上、知っておく必要があります。実は Dpdñ のページの最後に次のように書かれていました ↓

この波線はアクセントを表す記号とともに «tilde» と呼ばれる(ñ. 2.)

tilde はアクセント記号だと思ってましたが、このニョロニョロもまた tilde って言うんですね!ということは、tilde とは文字の上に付ける記号全般を指すのでしょうか?
DRAE で引いてみると ↓(日本語に訳してます)

1. 女性名詞. アクセント (‖ スペイン語正書法における記号). Raúl se escribe con tilde en la u. 男性名詞としても使用されていた.
2. 女性名詞. ñ などの文字の一部を構成する線状または波状の記号であり、かつては省略表記に使用されていた. 男性名詞としても使用されていた.(tilde)

二番目の意味に「かつては省略表記に使用されていた」とあります。ということは、ñ に付いている tildenn の片割れではなく、二文字を一文字に略していることを示す記号だったんですね。
さらに調べてみると、日本語では「チルデ」または「波線符号(はせんふごう)」と呼ぶようで、この記号が付くことで鼻音化させる働きがあるようです。ポルトガル語では母音の ao にチルデが付く鼻母音の ã, õ(発音はそれぞれ「アン」「オン」)という音があります。

ただ、Wikipediaの「チルデ」のページに

もともと、字母の上に N を小さく書いたことから生じた記号である。

とありました。ということは!!ここまでの内容から次のように推測します。

ラテン語で nn で表されていた単語が後世にニャ行の音で発音されることになり、スペイン語では n の上にもう片方の n を乗せて ñ の文字が生み出されました。この ñ は(硬口蓋)鼻音という音を表すのでこのニョロニョロが他の文字に付いても鼻音化させる記号と扱われるようになったと考えられます。さらには、nn の二文字がニョロニョロが付いたことで ñ の一文字に省略されたという背景から省略表記としての機能も与えられたのではないでしょうか。
もしこの推測が正しければ、この ñ の文字は現代の文字表記体系に大きな影響を与えたということになります。もしかしたら、スペイン語を代表するだけでなく、世界に誇れる文字だったのかもしれません!

ついでに、今回 ñ の文字に関する記事を複数呼んでいると新たに virgulilla という単語を知りました。この新出単語も DRAE で確認してみると ↓

1. 女性名詞. コンマまたは線の形をした正書法における記号; 例, アポストロフィ、セディーユ(ç の c の下についている記号)、ñ のチルデ、等.(virgulilla)

virgulilla という語の定義の中に例として「ñ のチルデ」が挙げられていることから、要するにその関係性は "virgulilla > tilde" 。つまり、文字に付け足す記号の総称が virgulilla で、その内の一つが ñ のニョロニョロ、すなわち「チルデ」であるということです。


さてさて、ニョロニョロの名前を学んだところで、次は ñ の文字が持つ歴史について見ていきます。引用させてもらうのはBBCからこちらの記事 ↓
"¿Cuál es el origen de la letra ñ y qué otras lenguas la utilizan?(2016/12/07/付)"

スペイン語を象徴する文字だけに非常に興味深い歴史を持っていました。

ñ の文字は Real Academia Española の辞書に1803年まで登録されなかった。しかし、正真正銘のスペイン語であるこの文字の起源はおよそ1000年前に遡る。
ラテン語にはこの ñ に当たる文字も音も存在していなかった。しかし、ラテン語が進化してカスティーリャ語、フランス語、イタリア語などのロマンス諸語が台頭するにつれて、現在我々が "eñe" と認識しているこの硬口蓋鼻音 (sonido nasal palatal) が登場した。ラテン語のアルファベットの中にまだこの文字が存在していなかったため、写字生たちはロマンス諸語で書かれた文書の中でこの音を再現するための方法を開発しなければならなかった。そのため、9世紀から写字生はこの eñe の音を3つの表記で転写し始めた。
  nn - canna (caña), anno (año), donna (doña)
  gn - lignu (leño), agnus (cordero)
  ni +母音 - Hispania (España), vinia (viña)

先に引用した通り、Ortografía でも ñ は「新しい文字 (Nuevas letras)」の一つとされているようですが、新しいと言ってもどうやらその歴史は1000年はある様子。それでもラテン語から存在している他のアルファベットからしたら、まだまだ新参者扱いされているかもしれません :)

この比較的新しい ñ の音はラテン語から派生したロマンス諸語の中で生まれたということで9世紀にはすでに存在していたようですが、 ñ の文字が生まれるまでの期間はラテン語で使用されていた "nn", "gn", "ni +母音" という三つの組み合わせをそのままニャ行の音を表すためにそのまま用いていたようです。

"nn" はこのブログを通して無数の単語の語源を調べる中で、起源となるラテン語の単語の中に入っているのを何度も見てきたので親しみがあります。

"gn" は Dpd でイタリア語とフランス語で使われているとありましたが、伊語と仏語の単語なんて知らないのでスペイン語と比較できナイ。。。と思いながら色々考えていると、イタリアはボローニャ、フランスはシャンパーニュのようにそれぞれの国にニャ行の音が入っている地名があるじゃないですか!
早速調べてみると、ボローニャBolognaシャンパーニュChampagne と、ともに "gn" でニャ行が表されています。またもう一つ、以前「スペイン語の故事成語」の記事の中で "Hablando del rey de Roma" の「ローマの王」とはフランスのアヴィニョン教皇庁が移された時代のローマ教皇であると習いましたが、このアヴィニョンもまたフランス語では Avignon という風に表記されています。

最後の "ni +母音" は例にあるように España の元となった Hispania が真っ先に浮かびます。スペイン語は日本語ほど母音が連続する際にはっきり独立させて発音しないので "i+a" が「イ・ア」ではなく「イァ」、もっと早く発音すると「ィヤ」のように聞こえることがあります。なので、Hispania の語尾の "-nia" は「ニア→ニィヤ→ニャ (=ña)」と変化していったと考えられます。

ちなみにですが、Champagneスペイン語ChampañaAvignonAviñón のようですが、Bologna は *Boloña とはならずに Bolonia となるようで、必ずしも gn が ñ に対応しているわけではないようです。ボローニャに関してはスペイン語では、ラテン語で用いられていた"昔の"方法で「ニャ」が表されているんですね。
ただ、ボローニャはヨーロッパ最古の大学であるボローニャ大学を有する歴史ある街として世界史の授業で習いました。なので、もしかしたら ñ の文字が生まれる以前のスペインとも係わりがあり、その時代に記されていた表記法が現代まで残ったのかもしれません。

 

続きはまた今度。