イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

A buen hambre no hay pan duro

「空腹は最高の調味料」という、人間だけでなくすべての生き物に普遍的に当てはまるであろうこの言葉は歴史上で何人もの偉人たちが自著に残しているようですが、誰が一番最初に言ったのかは明確にはなってないそうです。そんな中、あのセルバンテスもこの言葉を Don Quijote の中で使っているんだとか。早速、RAEコーパス CDH で探してみるとサンチョ・パンサの妻テレサのセリフの中で使われているのを見つけました ↓

La mejor salsa del mundo es la hambre; y como esta no falta a los pobres, siempre comen con gusto. (Cervantes, 1615, Segunda parte del ingenioso caballero don Quijote de la Mancha [España])
訳)この世で一番のソースは空腹なんだ。貧乏人には常に空腹が足りているからいつも何でも喜んで食べるんだよ。

Don Quijote をまだ読んだことないのでこのテレサ・パンサがどういう人物か分からないのですが、ここでは適当なイメージとして恰幅と愛想のいいおばちゃん風に訳してみました。
気になるので調べてみると Biblioteca Virtual Miguel de Cervantes なるウェブページから次のテレサの絵を見つけました ↓

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Retrato de Teresa Panza, dibujado por Passos, José (1862-1928)

Panza の名に恥じない素晴らしい体躯の持ち主です :)

そして、彼女のセリフで気になるのは hambre に付いている定冠詞が la になっている点。前回の記事「otro área」で17世紀の古典スペイン語の時代まではアクセントが落ちる /a/ から始まる女性名詞に対しては現在とは異なりそのまま la が置かれていたと学びましたが、ドン・キホーテを出版した1615年つまり17世紀前半のセルバンテスel hambre ではなく、まだ la hambre としていたんですね。もしかしたらセルバンテスの時代の人たちが la hambre という風に言っていた最後の世代かも知れません。

ちなみに、スペインにいた時にこの表現をスペイン語で何て言うのか気になって友だちに聞くと "El hambre es el mejor condimiento" と言うと教えてもらいました。こちらの方がセルバンテスの方よりも日本語の「空腹は...」に近いですね。

 

【きっかけ】

実は別の友だちにも「空腹は最高の調味料」に当たる表現がスペイン語にないか聞いたところ、教えてもらったのが今回のタイトルに置いたことわざ "A buen hambre no hay pan duro" 。よく知られたことわざなので聞いたことない人の方が少ないかなと。
今回はこのことわざに詰まった文法を詳しく見ていこうと思います。

 

【意味】

字義通りの意味は「かなりおなかが空いている時に硬いパンはない」。
硬いパンよりも柔らかいパンを食べたいものですが、空腹時に限ってはたとえパンが硬かろうが関係なくありがたく頂けるという意味で「空腹は最高の調味料」と同じ意味を表します。
さらには、おなかが空いているのであれば硬いパンであってもむしろありがたく頂くべきであるという「好ましくない状況にある時に贅沢は言うもんではない」という教訓を表すこともあります。

日本語にも似たような意味を表すことわざがないか調べてみると「飢えては食を選ばず」ということわざがあるようです。また、変換ミスで「飢えてはを選ばず」と出てしまったのですが、「食」と同様に飢えるほど困窮している状況だと確かに「職」すらも選んでられないですよね。まさに "A buen hambre no hay trabajo duro" ですね ;)

また、このことわざの汎用性は高く、食に限りません。広義で、何かが必要な時に手に入ったものが最低限のものであってもありがたく感じるものであり、ケチをつけるべきではないという意味で使われることもあります。
エミネム feat. リアーナの The Monster という曲の歌詞に "Beggars can't be choosey" という表現が出てきます。「乞う者は選択者には慣れない」つまり、物を恵んでもらう側の人間は選り好みをする余裕などなく、何かをもらった際にそれに文句を言うべきではないという意味です。A buen hambre no hay pan duro は広義的にこの英語の表現に類似した意味も表します。

 

【考察】

ここからはこのことわざの文法を見ていきます。
まずは頭の前置詞 a ですが、DLE に記載されている22個の定義の中でこのことわざでの用法と考えられるのは次の二つ ↓

6. prep. Precisa el lugar o tiempo en que sucede algo. Le cogieron a la puerta. Firmaré a la noche.(a2)
訳)前置詞. 何かが起こる場所または時間を示す.

7. prep. Indica la situación de alguien o algo. A la derecha del director. A oriente. A occidente.(a2)
訳)前置詞. 誰かまたは何かの状況を示す.

"A buen hambre" は「おなかが空いている『時』は」という意味を表しているので、"a las tres"「3時に」のように時間を表す6.の用法での使用だと考えられます。しかし、「おなかが空いている『状況』では」という風にも解釈できるので7.の用法である可能性も十分考えられます。
「つらい時こそ笑顔を」という意味のことわざ "A mal tiempo, buena cara" でも a が同じように使用されています。これは6.の用法かと。
ところが。。。このことわざについて調べてみると、実はここの "mal tiempo" は -結局のところは比喩的に「悪い時」を指すわけですが- ここでは「悪い天気」を表しているそうです。となってくると、この表現の a は7.の用法であるとも考えることができそうです。
まあ、いずれにしろ「空腹時には/空腹の状況には」も「悪天候時こそ/悪天候の状況こそ」も同じような意味を表すので、この前置詞 a は時間もしくは状況を示す用法であると分かれば十分です。


次に buen 。ここではもちろん「良い」という意味ではなく、

8. adj. Bastante, suficiente.(bueno, na)

という意味で使われているので「『かなり』おなかが空いている」という意味になります。この用法は「かなりの量の...」を "una buena cantidad de..." と言う際などに見られますよね。でも、"Tengo buena hambre" とは聞いたことですが。。。
ネイティヴに聞いてみるとやはり「そんな言い方はしない」とのことで、おそらく「昔のことわざだからその時代の言い方なんじゃないかな」という意見をもらいました。


さて、今回のメインはここから。
このことわざを初めて聞いた時には気付きませんでしたが、後に文字にした際におかしな点があることにふと気付きました。それは "buen hambre" という形。
このことわざを教えてもらった時に「ア ブエン アンブレ」のように耳で聞いて覚えていたので "A buen hambre" だと信じていましたが、よくよく考えると hambre は女性名詞なので本来であれば buena という形になるはず。。。てことは、オレは何年間も間違えたまま "buen hambre" って思ってたってコト?とショックを受けながらも複数の辞書で調べてみると、"A buena hambre" という形で掲載している辞書もあるものの、やっぱりぼくがスペイン人の友だちに教わった通りに "A buen hambre" で記載されており、西和中辞典にも buen の形で載っています。

考えられる理由としてまず最初に思い浮かんだのは「ことわざが refrán と呼ばれる所以」。スペイン語のことわざには El que quiera azul celeste que le cuesteEn martes ni te cases ni te embarques のように韻が踏まれているものが非常に多いですが、「ことわざ」を意味する refrán という語は「繰り返し」を意味するフランス語の「リフレイン」に由来します。つまり、同じ音が繰り返される表現ということで refrán と呼ばれているのです。ぼくはこのことから、後半部分の pan と語末の n で韻を踏ませるために buena ではなく buen という形に無理やりしたのではないかと考えました。
英語を学んでいる時から「歌の歌詞とことわざには文法を求めても仕方ない」ということは重々承知していますが、ここではそれを逆手に取って、ことわざの音を重視するために文法を軽視したとは考えられないでしょうか?

しかし、残念ながらこの説は証明のしようがありません。そこで次に思い付いたのは「hambre は元は男性名詞だった」という可能性。ことわざということで歴史が古く、このことわざが生まれた時代は hambre が男性名詞だったとしたら buen hambre という形にも納得できます。ということで deChile.netDEEL からこの語の語源を見てみると

hambre俗ラテン語で同じく「空腹」を意味する famen, faminis に由来(HAMBRE)

そして、ラテン語の辞書を引いてみるとこの famen は女性名詞。どうやら hambre は語源からずっと女性名詞のようです。残念ながら二つ目の説は外れということが判明しました。
hambrebuen という形を導く要素がないとすると、bueno,a 自身に省略される理由があるはず。。。



と、ここまで書いたはいいものの、実はこの記事は長らくここで停まったままで投稿できずにありました。理由は単純に答えが見つからなかったから :'(
しかし、前回の記事のテーマを調べる中で Nueva gramática である興味深い内容を見つけました ↓

女性形定冠詞の異形態 el と同様に、語頭に強勢がある /a/ を有する女性名詞に先行する場合での女性形不定冠詞 un の使用は古い文章で見られる
この使用法は母音、主に /a/ または /e/ から始まる女性名詞もしくは女性形形容詞に見られた
E del çielo paresçió por las sombras de la noche caer un estrella corriendo (Villena, Eneida); Se descubrió una sala en la cual sobre un alta cátedra asistía una hermosa doncella (Lope Vega, Arcadia)(§15.1g)

現代では un は男性名詞の単数形もしくはアクセントが落ちる /a/ から始まる女性名詞の単数形にしか使われませんが、なんと女性形容詞 (un alta cátedra) や e から始まる女性名詞 (un estrella) にも un が使われていた時代があったようです!しかも、例文に出ている estrella に至ってはもはや語頭の e にアクセントが来るわけでもないのに un estrella という形になるようです。前回「形態音韻論的な理由」どうこう言ってましたが、a から始まらない女性名詞にも使ってたんかい!て感じです(笑)
そしてこの続きにさらに驚きの事実が ↓

古典スペイン語では別の母音から始まる名詞の前に un が使われている例もある: Y disparaba con una risa que le duraba un hora, sin acordarse entonces de nada de lo que le había sucedido en su gobierno (Cervantes, Quijote II)
この項で説明されたこの現象の発展は定冠詞の場合も同じであり、18世紀以降、強勢のある /a/ から始まる形容詞の前の un の出現が散発的に見られ、20世紀初頭から現在の用法が一般的に定着した(§15.1g)

セルバンテスの時代には "un hora" のように母音から始まる女性名詞には una ではなく un が使われていたようです。そして un agua, un área のような現代では一般的な言い方が定着したのは20世紀初頭ということは、この用法はまだ2世紀ほどの歴史しかないんですね。思いの外"最近"まで una agua, una área という風に言われていたということになります。前回、そのような言い方も「間違いではない」と見なされていることを学びましたが、それは un agua, un área という言い方の歴史に比べると una agua, una área の歴史の方がまだまだ長いからかもしれませんね。

さて、この内容をここで引用したのは "buen hambre" にも同じことが起きているかもしれないと考えたからです。現代のルールでは uno に語末音消失 (apócope) が起きて un という形になるわけですが、bueno も同じく男性単数名詞に対して語末音消失が起きて buen という形になることができます。
現在とは異なり "un alta cátedra" のように母音から始める女性形容詞の前や "un estrella" や "un hora" のように母音から始まる女性名詞に対して uno, una は語末が消失した形が使用されていたという事実から、同じく語末音消失という特徴を持っている bueno,a にも同じことが起きていたと推測できないでしょうか?つまり、bueno,a も uno,a と同様に過去の時代には母音から始まる女性名詞に対しては buen という形で使用されていたのではないでしょうか?
今回のことわざではその bueno,a に続いている名詞は母音から始まる女性名詞の hambre。現代では una hambre となるはずですが古典スペイン語では un hambre になっていたのと同じ理論で、現代では buena hambre となる形も昔は buen hambre という形で使用されていた可能性があるかと。

そのように考えて、祈りながら Nueva gramática をさまよっていると。。。ついにこの疑問の答えとなりうる記述を以下に見つけました! ↓

形容詞の buenomalo は名詞の前に位置する際に語末の母音が消失する: buen comienzo, buen entendedor, mal pronóstico, mal estado de las carreteras
スペイン語においては女性名詞の前であっても語末の母音を消失した形が認められていた: La causa d'esto ya se a tocado en otra parte por la buen mezcla de lo seco y húmedo (Pérez Vargas, Metallica)
現代ではこの用法は一般的に許容されていないが、直近2世紀の文書にて名詞 hora との en buen hora, en mal hora という表現が確認される: En buen hora, señor; no digas más: confieso que no lo entiendo (Larra, Doncel); En mal hora vino acá la moda imperial (Galdós, Episodios)(§13.5o)

どうやら、buen hambre という形になる理由は古スペイン語における bueno の用法のようで、なんと当時は引用内の例文にある "buen mezcla" のように修飾する名詞の文法性にかかわらず、単数形の名詞に前置する場合は語末の母音が省略されて buen という形にされていたんですね!つまり、今回の buen hambre のケースは hambre が「母音から始まる」女性名詞であるということは関係がなかった模様。buen mezcla のように母音から始まらなくても単数であれば男性名詞でも女性名詞でも一様に buen という形でよかったようです。
これまた現代とは異なるルールを知ることができました。

このルールは grande の用法と同じですね。現代のルールでは bueno, malobuen amigo - buena amiga, mal amigo - mala amiga のように男性名詞の単数形の前でのみ語末音消失が起こりますが、一方の grandeun gran amigo に対して una gran amiga のように女性名詞の単数形の前に置かれる場合にも語末音消失を起こします。grande はこのルールを現代まで維持したようですが、buenomalo に関してはこのルールを時の流れの中で失ってしまったようですね。

そして、引用内で「古スペイン語」と訳した部分は原文では "la lengua antigua" であり、厳密な時代区分は不明です。しかし、ネットで調べてみると español antiguoespañol medieval と同義のようで、となるとおよそ9世紀から15世紀の間のスペイン語「中世スペイン語」を指すことになります。
そして、当時の文法のルールに従った形であるということはこのことわざは少なくとも15世紀には誕生していたことになります。そして現代では不自然に聞こえるものの、当時は buen を hambre と組み合わせて「とてもおなかが空いた」という意味で使われていたと。上で書きましたが、スペイン人の友だちが言っていた通り "a buen hambre" における buen の用法と形はまさに「昔の言い方」であったということですね。これがネイティヴの直感というやつでしょうか。

 

【結論】

● ことわざ A buen hambre no hay pan duro は「空腹は最高の調味料」を意味し、さらに広義で「好ましくない状況にある時に与えられたものに文句を言うべきではない」という意味も表す。

● 中世スペイン語(9世紀から15世紀)では形容詞 bueno, malo は女性名詞の前であっても、修飾する女性名詞が単数であれば語末音消失を起こし buen, mal の形で使用されていた。A buen hambre no hay pan duro にはこの中世スペイン語の文法ルールが充てられているため、現代では見られない "buen hambre" という形を採っている。


冒頭で述べた通り、このことわざ自体は大昔から存在しているようで、具体的にいつの時代から使われているのかは不明です。しかし、スペインに入ってスペイン語で表される際にその当時の文法ルールで表されたものが(現代の文法ルールとは違うのに)現代でも維持されているということにぼくは心打たれます。
辞書によってはこのことわざを "A buena hambre..." に替えて記載しているものもありますが、当時のスペイン語をわずかでも感じられるような気がするので、ぼくは A buen hambre no hay pan duro 派でこれからも行こうと思います :)