イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

スペイン語の故事成語

"Quien no ha visto Granada no ha visto nada"
グラナダと言えばアルハンブラ宮殿をはじめとする世界遺産が複数ある観光都市であり、観光大国スペインの中でも人気の高い場所ですよね。さらには、1492年の「グラナダ陥落」によってレコンキスタが完了した場所であり、700年以上に渡ったイスラム支配からの解放の象徴的土地としてもスペインにとっては歴史的に最も重要な地の一つです。「グラナダを見たことない人は何も見ていない」と言われる所以ですね。

類似表現として "Quien no ha visto Sevilla no ha visto maravilla"「セビーリャを見たことない人はこの世のすばらしさを見ていない」というものもありますが、ともに Granada - nada, Sevilla - maravilla という風に韻が踏まれています。
すごく興味深いのは、日本語にも「日光を見ずして結構と言うなかれ」と同じ意味を表すことわざがありますが、これもまた日光(にっこう)と結構(けっこう)で韻を踏んでいるという点です。
ちなみに英語では韻は踏んでないですが "See Naples and die" という同じ意味を表すことわざがあるようです。「ナポリを見てから死ね」と言わしめるほどナポリは素晴らしいようです。

このようにことわざで使わているということはこれらの街は相当おすすめということですよね。ぼくはグラナダとセビーリャは行ったことあるので、あとは死ぬ前にナポリと日光に行こうと思います :)

 

【きっかけ】

ところで、セビーリャを含むことわざと言えば上のものよりも "Quien fue a Sevilla perdió su silla" の方が有名ではないでしょうか?この表現もまた Sevillasilla が韻を踏んでいますが、なぜセビーリャなのでしょうか?調べてみたらセビーリャで起きたある歴史上の出来事に由来していました。

他にも自分が知っている、地名が入った表現の由来をなんとなく調べてみると、Sevilla の表現と同様に歴史的事実に基づいて生まれたものが他に4つ見つかりました。ということで、今回扱うのは次の5つ ↓

Quien fue a Sevilla, perdió su silla
estar en Babia
hablando del rey de Roma
irse por los cerros de Úbeda
No se ganó Zamora en una hora

並び順は表現が生まれるきっかけとなった出来事の年代が新しい順にしています。
そして一点断っておくと、①と⑤は小学館の西和中辞典では⦅諺⦆と表記されています。しかし先に述べた通り、調べてみたところ他の3つの表現も含めて史実、つまり故事に由来するので、今回の表題は「ことわざ」ではなくて「スペイン語故事成語」としています。

というわけで、スペインの歴史の中で生まれた故事成語を見ていきましょう。

 

【起源】

Quien fue a Sevilla perdió su silla

参考記事 : "Origen del dicho: «Quien fue a Sevilla, perdió su silla» (2013/10/01付)"

一度何かを手放すと簡単に失ってしまうといった意味を表すこの故事成語。「セビーリャに行ったら自分の椅子を失った」とあります、ここで失われた silla とは単なる椅子ではなく、もっとデカイものだったようで、、、

起源に忠実に従うならば、この表現は正確には «Quien se fue de Sevilla, perdió su silla» であり、カスティーリャ王・エンリケ4世 (1425-1474) の治世に起きた歴史的事実、Alonso de Fonseca el ViejoAlonso de Fonseca el Mozo というおじと甥の関係にあった二人の大司教の間の対立に基づく。
1460年、セビーリャの大司教 don Alonso de Fonseca の甥がサンティアゴ・デ・コンポステラ大司教に任命された。しかし、当時のガリシア王国はかなり混乱していたため、甥はおじに頼んで、自分がセビーリャ大司教の役職を代わりに務めている間に、サンティアゴ・デ・コンポステラを平定して確実に自分が司教の座に付けるようにしてもらった。そして、おじはサンティアゴの混乱した司教区に平和を取り戻し、元の地位であるセビーリャ大司教の座に戻るためにセビーリャに帰ると、なんと甥にセビーリャ大司教の座を返すことを拒否されてしまった。このおじと甥の対立は大きな混乱を生み、教皇の令、カスティーリャ王の介入、そして支援者の絞首刑に頼る他なかった。
この出来事がこのことわざの起源となっているため、その不在はセビーリャへ行った者ではなく、セビーリャから出て行った者に被害をもたらしたと推測される。そして時を経るに従って silla の話だけが残って広まったため、元の意味とは異なる意味が今日に伝わっている。

ここでの silla とは大司教の「座」を表す比喩としての「椅子」だったようです。この由来を知ったら、トイレに行くために席を立って帰ってきたら自分の席が取られてた、みたいなナメた使い方なんてもうできませんよね(笑)
そして興味深いのが、由来となる出来事ではおじの Don Alonso de Fonseca がセビーリャ「へ」行ったのではなく、セビーリャ「から」出たがために大司教の座を甥に奪われてしまったという点。引用部の冒頭にもある通り、"Quien fue DE Sevilla, perdió su silla" と言った方が史実的には正しいようです。

ちなみにですが、この出来事が起きた時のカスティーリャ国の王エンリケ4世は Enrique "el Impotente" という別名が付いているそうです。日本語では「不能王」。。。
なんでも、二度結婚したもののなかなか子どもが生まれず、後継ぎ問題にまで発展したことから「不能」なのではないかという噂が広まってこの名が付いたとか。エンリケ4世の名誉のために述べておくと、二番目の妻との間に一人の娘が生まれているので、有能だったようですヨ。


estar en Babia

参考記事 : "¿Por qué decimos estar en Babia? (2018/12/07付)"

この表現の起源についての記事を複数見つけましたが、どれにも具体的な年代が出てこず、今回の5つの故事成語の中で唯一年代の特定ができませんでした。記事にはその時代は「中世」とだけあります。なので、中世ヨーロッパの終焉とされている東ローマ帝国が滅亡した1453年をとりあえず基準に置くと、1460年の出来事に由来を持つ①の Sevilla は中世以降の出来事と言えるので、この "estar en Babia" は2番目に置くことにします。

ぼくはこの表現をスペインにいる時に知ったのですが、この表現によってバビアという町を初めて知りました。この表現が表す「上の空である」という意味に加えて、バビアという響きからぼくは勝手に「バベルの塔」が建設されたと言われる古代メソポタミアバビロニアのことを言っているのかと勘違いしていました。
バビロニアバベルの塔→空想上の代物」と連想していって、空想上のバベルの塔が建てられたバビロニアにいることから、この "estar en Babia" はずっと空想に浸って現実に戻ってこない、すなわち上の空であるという意味になるのかと考えました。しかし、このバビアとはれっきとしたスペインのレオン県にある街のことでした。

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Babia

その起源はと言うと、、、

中世の時代、レオンの王たちや宮廷に仕えていた富裕層は日頃の宮廷仕事を忘れて休養を取るためにこのバビアの地を選んでいた。そこで過ごす君主たちにとってその環境や雰囲気はかなりリラックスでき、特に夏場をバビアで過ごしていた。これがこの表現の起源であると考えられており、言い伝えによると、宮廷の誰かが王に抗議、または王に相談しに来たりした際に王に仕える者たちは «el rey está en Babia»「王はバビアにおられる」のように答えていた。

王は訪問者に対応するのが面倒くさい時に「王はバビアにいる」と言わせて居留守でもしていたんでしょうか?
ただ、宮廷での日頃の忙しさから解放されて、休息の地バビアで気が抜けて上の空になっていた様子は想像できる気がします。

実はこの表現には別の説もあり、、、

季節ごとに場所を移動する羊飼いたちは夏が終わるとバビアからエクストレマドゥーラに戻り、バビアを懐かしんで物思いにふけっていた。その度に頭の中ではお前はまだバビアにいるのかといった具合で «Eh, despierta, que estás en Babia» のように互いに言い合っていた。

「おい、目を覚ませ、お前はまだバビアにいるのか」と言われるくらい、バビアに郷愁を感じていたんでしょうか?そんなに素敵な場所なんだったらスペインにいる時に行っとけばよかった。またスペインに行くことがあればバビアは外せないですね。


hablando del rey de Roma

参考記事 : "Origen de dichos geográficos: 'Hablando del rey de Roma...'"

今回の5つの故事成語の中で最も使用されるのはこれじゃないでしょうか?そもそも、この表現がある歴史的事実に由来するなんて想像もしてませんでしたが、起源を調べてみるとこの表現もまた故事成語だっという事実。

「噂をすれば影(がさす)」は英語ではご存じの通り "Speak of the devil (and he will appear)" のように「悪魔」が出てきますが、スペイン語のフルバージョンは "Hablando del rey de Roma por la puerta asoma" であり、「ローマの王」の話をしているとドアから顔を出すとなっています。(この表現もまた Romaasoma が韻を踏んでる!)
この「ローマの王」が何かと言うと、、、

この表現は14世紀に教皇がフランスのアヴィニョンへ移された期間を指している。この時代は当時の教皇にとってあまり評判が良い時期ではなく、それは強大になりすぎた権力が主な原因であり、そのためローマ教会のトップは “ruin de Roma”「ローマの軽蔑すべき者」と呼ばれていた。年月を経て ruin という語がいくつかの場所では rey という語と変わった。

この rey de Roma とは「ローマ教皇」のことを指していたんですね。しかも、元々は rey ではなくて ruin だったなんて。世界史を勉強した時に当時の教皇の人気が凋落していたということは習いましたが、「ローマの軽蔑すべき者」と呼ばれるほどに嫌われていたとは驚きです。表現から当時の民衆の本音が垣間見えますね。

世界史のおさらいをしておくと、この出来事は「アヴィニョン教皇」または「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれ、ローマ教皇とフランス国王の対立が原因で1309年から1377年の間にローマ教皇の座がローマからフランスのアヴィニョンに移されてフランス国王の支配下に下った期間のことです。その後の教会大分裂ローマ教皇権の衰退へつながる大きな分岐点となった出来事であり、「ローマの軽蔑すべき者」と呼ばれるのも理解できます。

ちなみに、ruin を辞書で引いてみると同じ意味で "En nombrando al ruin de Roma, asoma" という表現が載っていました。元々使われていた ruin が使用される形も残っているようです。


irse por los cerros de Úbeda

参考記事 : "¿De dónde viene la expresión "irse por los cerros de Úbeda"?"

バビアと同じく、この表現を知ったことでウベダという街の存在も知りました。その場所はアンダルシア州はハエン県 ↓

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ウベダの丘を通って行く」というこの表現は「話の本筋から逸れて関係のないことや言い訳をうだうだと話す」という意味を表しますが、なぜウベダの丘なのでしょうか?

ÚbedaJaén 州の北に位置し、ユネスコ世界遺産に登録されている魅力的な場所である。レコンキスタにおける決定的な出来事の内の一つがこの場所で起こり、スペインで最も知られている表現の一つが生まれた。
ナバス・デ・トロサの戦い‹1›から数年後、スペイン南部へわずか数十キロの場所に位置するウベダキリスト教徒とムワッヒド朝の対立が再び生じた。正確には1233年に両軍が激突して数百人の死者を出したこの戦いにおいて、このよく知られた表現通りの興味深い出来事が起きた。
両軍衝突の直前、聖王フェルナンド3世軍の高官の一人で el Mozo として知られるアルバル・ファニェスが人知れず行方不明になった。数時間後、ウベダの街が征服され、戦いの危険が過ぎ去った頃に el Mozo が現れた。王が戦いの間どこにいたのかを尋ねると、彼はウベダの丘で迷子になっていたと答えた。
宮廷人たちはそれが残忍な戦いを前にした臆病さを認めないためのたどたどしい嘘であると考えたり、もしくはウベダの丘で女性とデートでもしていたのだろうといった具合に皮肉ったことは想像に難くない。そのため、誰かが何かから逃れようとする場合やある出来事に対して説明をする際に遠回りをしようとする場合に "te estás yendo por los cerros de Úbeda" のように言う。
彼の臆病さを正当化するわけではないが、el Mozoウベダを取り囲む美しい土地(に見惚れたこと)が原因で迷子になったのは本当だろう。

‹1› ナバス・デ・トロサの戦い (Batalla de Las Navas de Tolosa) ... 現在のアンダルシア州ハエン県のナバス・デ・トロサで1212年に行われたカトリック連合軍とイスラム連合軍の間の戦い。結果はカトリック側の圧勝で、イベリア半島におけるムスリム勢力(当時はムワッヒド朝)を衰退させた。

el Mozo が戦いに姿を現さなかった本当の理由は誰にも分かりませんが、彼が(おそらく)適当に放った「ウベダの丘で迷子になってた」という言い訳から生まれた表現が800年後の現代でも使われているなんて面白いですね。

cerro
は辞書を引くと「丘、小山」とあります。このウベダの丘がどのくらい迷子になりやすいのかは分かりませんが、森や林ならまだしも「丘」で迷子になるってどうなんでしょう。やはり el Mozo の言葉は言い訳で、戦いにビビって隠れてたのかも。。。


No se ganó Zamora en una hora

参考記事 : この表現に関しては簡潔にまとめられた記事が見つからなかったので、いくつかの関連記事を参考にして由来となった出来事についてまとめます。

最後の舞台はカスティーリャ・イ・レオン州のサモラ県。ぼくはサモラに隣接するサラマンカ県で勉強していたのでもちろんお隣さんの Zamora という地名は知っていましたが、訪れたこともなければ何が有名なのかも何も知らないという現実。「サモラといえば?」と問われても、サモラ関連で知っているのはこの表現くらい。ちなみに地図上ではここ ↓

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Castilla y León の地図

もしかしたら、サラマンカからバリャドリードに行った際にサモラの隅っこを一瞬通ったかもしれませんが、いずれにしろぼくにとってはその程度。ですが、由来を学ぶと、なんであの時に訪れなかったのかと後悔するくらいスペイン史において重要な出来事があったようです。

1065年、カスティーリャ・レオン王である父フェルナンド1世の遺言により、カスティーリャがサンチョ2世に、レオンが弟アルフォンソ6世に、ガリシアが弟ガルシア2世に、そしてトロとサモラが姉エルビラとウラカにそれぞれ相続された。しかし、父フェルナンド1世の死に際して分割された領土を再統合し、自らの手中に収めようと考えたサンチョ2世は次々に親族から領土を征服していく。
まずは、従兄弟にあたるアラゴン王サンチョ1世とナバラ王サンチョ4世の領土を征服。次いで弟ガルシア2世からガリシアを奪うと、弟アルフォンソ6世からレオンも奪取。残るサモラも自らのカスティーリャ王国への統合を目指したが、サモラ領主となっていた姉ウラカはサモラの街を要塞化して抵抗。それに対してサンチョ2世はサモラを包囲して陥落を企てたが、なんと7ヶ月経ってもサモラを落とすことができなかった。そして7ヶ月と6日が経過した1072年10月6日、サモラ守備隊の秘密を漏らす脱走兵のふりをしてサンチョ2世陣営に潜入したサモラ軍の男によってサンチョ2世は暗殺された。

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「強王 (el Fuerte)」サンチョ2世

この故事成語は「何かを成すためには時間はかかるものであり、時間や努力を惜しむな、焦ってことをなそうとするな」という教訓を表します。
父が分割した領土を連戦連勝で自分の帝国に組み込んでいった絶好調のサンチョ2世でさえも、このサモラだけは7ヶ月かけてもついぞ自分のものにすることはできずに無念の死を遂げてしまったことから、そのような意味になったということですね。

同じ意味を表す表現に "Roma no se hizo en un día"「ローマは一日にして成らず」がありますが、ローマという強大な都市が築かれるまでは500年以上もの歳月がかかったそうです。一日などという短い時間ではローマは成らず、はるかに長い時間を経てローマは成ったということですが、この解釈の仕方は Zamora の方にはあてはまりませんね。
つまり、表現を単純に解釈すると「1時間では陥落はしなかった。だけど、もう少し時間をかけると陥落することができた」のように感じられましたが、そもそもサモラは1時間どころか7ヶ月かけても陥落していないのです。
ここでの「1時間」にはおそらく特に意味はなく、いつものごとく単に Zamorahora の韻を踏むためだと思います。「繰り返し」を意味するリフレインから生まれた refrán(という語)の条件を満たしていますね。ことわざとして扱われている理由かもしれません。

ちなみに、このサンチョ2世はスペイン史の英雄であるあの「エル・シッド」の君主だったようで、彼の活躍もあって弟のアルフォンソ6世からレオンを奪取できたとか。

さらに余談ですが、カスティーリャ王国レオン王国は統合と分裂を繰り返した歴史があり、1037年に両国を併合してカスティーリャレオン王国としたのがサンチョ2世の父であり「大王 (el Magno)」と呼ばれたフェルナンド1世。彼の死後に分割相続され分裂。統合を目指したけど失敗に終わったサンチョ2世の暗殺後、弟のアルフォンソ6世がカスティーリャ、レオン、ガリシアを継いでカスティーリャレオン王国を再統合。この連合国はちょうど100年後の1137年にカスティーリャ王国レオン王国とに再び分裂してしまうのですが、さらに約100年後の1230年に、ウベダのところで出てきた「聖王 (el Santo)」フェルナンド3世が両国の国王を兼任したことによって再びカスティーリャ・レオン連合国となっています。

まさか今回取り上げた故事成語の由来となった出来事の登場人物が時代を超えて「カスティーリャとレオンの併合」という点で結び付くなんて!

 

【まとめ】

     年代        故事成語     人物
 1460  Quien fue a Sevilla perdió su silla   Alonso de Fonseca el Viejo 
 中世  estar en Babia  中世のレオンの王たち
 1309-1377   hablando del rey de Roma  アヴィニョン教皇
 1233  irse por los cerros de Úbeda  アルバル・ファニェス
 1072  No se ganó Zamora en una hora  サンチョ2世

故事成語のおもしろい起源を知ってしまったので、ナポリと日光に加えて、バビア、ウベダ、サモラも訪れないといけませんね ;)