イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

letra MUDA

アラビア語には ة(ターマルブータ)という文字があります。しかし、この何だか響きがいい文字はその特異性から教科書の1ページ目に載っているようなアラビア文字表には実は入っていません。
そもそも、このターマルブータとはアラビア語で「結ばれたター」という意味で、同じ t の音を表す文字 ت /tah/ の二つの点の下のお皿の部分が結ばれたような形からこの名前が付きました。そして、このターマルブータは単語の語尾にのみ現れて、直前の文字の母音を a に変えるという特異な文字なのです。

「友だち」という語を例にしてみます。アラビア語にもスペイン語と同様に男性名詞と女性名詞が存在するので、amigoamiga に当たる語がそれぞれあるのですが、amigo に当たる صديق /ṣadīq/(サディーク)の語尾に ة(ターマルブータ)が付くと صديقة /ṣadīqa/(サディーカ)となり、女性名詞に変えるのです。
しかし、実はこの文字、直前の文字の母音を a に変えるだけではなく、隠れた t の音も持っているのです。どういうことかと言うと、例えばアラビア語は所有詞が単語のおしりにくっ付きます。スペイン語だと mi amiga となりますが、mi に当たるアラビア語の所有詞 ي /ī/(イー)が付くと صديقتي /ṣadīqatī/(サディーカティー)というように t の音が発音されるのです。

さて、アラビア語における少し特異なこの文字を習った時に「黙字(もくじ)」という存在を知りました。ターマルブータは本来 t の音を持ち、mi amiga は /ṣadīqat/(サディーカッt)となるはずですが、この文字の後に他の文字がくっつかない場合はその t の音の発音は省略されて /ṣadīqa/(サディーカ)となります。このように語中に現れているにもかかわらず、その音が発音されない文字のことを黙字と言います。
英語だと knightkdoublebwritewcastlet など言われたら結構ありますよね。ちなみに、日本語にもこの黙字はあるようで、伊右衛門(いえもん)の右や和泉(いずみ)の和がそれに当たるそうです。確かに「この文字いらなくね」と思ったことありますよね。

そんなまやかしのような文字「黙字」はスペイン語では letra muda と言うようです。
ぼくが現在働いている工場は日系なので日本の製造業界で生まれた考え方である「改善 (kaizen)」とともに「無駄 (muda)」もまた文字を変えただけでそのままスペイン語でも使われることがあります。そんな背景もあって、この letra muda を初めて見た時に、読まないから「ムダ」な文字なのかなと思い、言語学にも日本語の「ムダ」が!?と驚きました。しかし、実際は「無音の」を意味する mudo, muda なのでゴリゴリのスペイン語。落ち着け自分。

 

【きっかけ】

さて、そんなぼくを惑わすこの黙字ですがスペイン語で考えてみると、まず思い浮かぶのが h の文字。h は発音しないと習いますし、ネイティヴネイティヴで外国語でさえ h を発音しないことも。
この前も会社でメキシコ人の同僚が「広島支店」のことをずっと "la sucursal de ロシマ" って言ってました。めちゃくちゃスペイン語のルールに縛られてる!

この h の他にも黙字になり得る文字って他に思い浮かびますか?ぼくはあと2つだけ思い浮かびます。
ということで、今回はそんな letra MUDA について調べてみます。

 

【考察】

今回は文字に関するテーマなので Ortografía de la lengua española を見ていきます。
まずは h について ↓

h の文字は現代の標準スペイン語のアルファベットにおいていかなる音も表さない唯一の文字であるため、習慣的に «hache muda»(無音の h)と呼ばれる
しかし、例外的にこの h の文字が有音( /j/ の音)で発音されることもあり、その場合は伝統的に «hache aspirada»(有音の h)と呼ばれる(6.3.1 LA LETRA H)

有音の は外来語に見られますよね。例えば hámsterh は [x] の音、すなわち j の音で発音されるとしている辞書もあります。「ハムスター」という言葉は元はドイツ語のようですが、a にアクセントがあるように表記上はスペイン語化されていますが、元の言語での発音を優先している、といった単語もあります。

そういえば、スペイン語一年生の時に「スペイン語にはザ行とシャ行の音がない」と習って衝撃を受けた記憶があります。しかし、例えば hacer に否定の接頭辞 des- がついて「分解する」などを意味する動詞 deshacer を見た時に、sh はシャ行の音を表すはずだからこの発音は"デシャセール"になるのかなと疑問に思いました。実際はこの h も無声のままでシャ行にはなりませんが、表記上だと"デシャセール"と読めなくもないですよね。
発音されない h の文字ということで「無音 (muda)」ですが、このように発音しないのに何で綴りに現れるのでしょうか?やっぱり「ムダ (muda)」であると思わざるを得ないのですが。。。

そんな魅惑の h の表記と発音の歴史は以下のようです ↓

語の発音が表記に対して大きな影響を与えていた中世スペイン語の初期には、ラテン語h を含んでいた語彙に由来する多くの単語は h の文字なしで表記されていた: auer (現代表記は haber), omne (hombre), onor (honor), etc.
しかし、後の時代にスペイン語正書法が強化される中で語源の表記に従うようになり、13世紀の半ばから、特にラテン語化の影響が強い時代となった15世紀から、語源で表記されていた h の多くが再び表記されるようになり、今日までその表記が維持されている(6.3.1.1 La h muda Información adicional)

例として一つ、hombre の語源を調べてみると、ラテン語では homine であったようです。ラテン語では h の文字は発音されていたようなので、中世スペイン語に入った際に何らかの理由で発音されなくなり、その発音通りに表記されることになったため omne と書かれていた時代があったと。しかし、時代が進むにつれてスペイン語の起源となったラテン語での表記を尊重する「ラテン語化」という動きがスペイン語正書法の中で起きたため、h の表記が復活したようです。
「なんて先祖思いな言語なんでしょう!」と言いたいところですが、それだったら h の発音も復活させたれよと思ってしまいます :)

しかし、どうやら h の文字が発音されていた時期もあったようで、、、

ラテン語における語頭の f- の有声化はバスク地方に隣接する地域などのスペイン北部から始まり、レコンキスタの時代に南に向かって広がっていった
しかし、この新しい有気音はラテン語本来の表記である f- の文字で、少なくとも文語体において15世紀半ばと16世紀初頭までしばしば表記され続けたが、16世紀中に文語体でも f- の表記が h- の文字に取り替えられた
そして、ラテン語での f- に由来する h- の有気音的発音は16世紀半ばに教養的なスペイン語から消失したものの、その表記は今日まで維持されている
しかし、有声の h はアンダルシア、エクストレマドゥラ、カナリア諸島やスペインとアメリカ大陸のいくつかの地域の方言的特徴としてまだ維持されている(6.3.1.1 La h muda Información adicional)

ラテン語facere から hacer に、filĭus から hijo になったように、ラテン語で語頭に現れていた f が16世紀頃には h と表記されるようになったとあります。さっきの「なんて先祖思いな...」ってのは取り消しですね。f から始まる単語に関しては、語源のラテン語での表記が復活することはなかったようです。

しかし、f に取って代わった h は一応16世紀半ばごろまでは発音されており「有声」だったんですね。さらには、ぼくたちが知っているスペイン語では h は無声ですが、地域によっては有声の h として未だに発音されているようです。


さて、自由奔放な h の表記と発音の変遷を学んだところで、その他の黙字について調べていきましょう。
Ortografía に「二重子音の組み合わせ」について言及している項がありました ↓

スペイン語では語頭に現れる二重子音の自然な組み合わせは /b/ /p/ /g/ /k/ /d/ /t/ /f/ + /r/ または /l/ のみである: broma, blusa, prisa, pluma, grapa, glicerina, cría, claro, drama, trote, fruta, flor
語頭におけるこれら以外の二重子音の組み合わせはスペイン語独自のものではなく、他言語からの語にのみに見られ、通常ギリシャラテン語起源の教養語に現れる
cnidario, gnóstico, mnemotecnia, pneuma, psicología, ptolemaico のように語源の子音表記を維持している語や dsetapsi のようなギリシャ文字の名称に見られる
psicología, psiquiatra, psicotécnico のように一般語彙として普及した語もあるものの、例に挙げた語を見ると分かる通り、これらは基本的には教養的な用語であり、科学技術分野での使用に制限されている(6.5.2.2.1 Grupos consonánticos en inicial de palabra: cn-, gn-, mn-, pn-, ps-, pt-)

どうやら、スペイン語において語順等の要因で黙字になり得るのは

  cn, gn, mn, pn, ps, pt

という6つの子音の組み合わせの一つ目の文字。つまりは c, g, m, p の四文字が letra muda になるポテンシャルを持っているようです。
念のため繰り返しますが、これらの文字が発音されないのはこれらの二重子音が単語の頭に来る場合のみで、例えば cnica, incognito, alumno, hipnotizar, capsula, optimo などのように語中に現れる場合は二重子音としてどちらの音も発音されますよね。

【きっかけ】で述べた h の他にぼくが思い付く黙字mn- と ps- でした。とりあえず、一つずつ見ていきましょう。
まずは mn- から。
高校生の時に「トイストーリー2」を英語で観てみようと思い立って観ていると、ニワトリの着ぐるみを着た男がウッディたちを日本の博物館に売るために日本人と電話で話しているシーンで、電話を切る直前に "Don't touch my mustach" と言います。
「オレのヒゲを触るな」という文脈を完全に無視したセリフの意味が全く分からず、当時の英語の先生に聞いてみると衝撃の事実が!英語ネイティヴにはこの文章が日本語の「どういたしまして」に聞こえるそうで、音が似ているので覚えるために使われているらしいです。日本でも "What time is it now?" を「掘った芋いじるな」と覚えるといったものがありますよね。
それにしても、 "Don't touch my mustach" が「どういたしまして」!?どう頑張ってもそうは聞こえませんが、とにもかくにも英語圏ではそう聞こえるそう。なので、ニワトリ男は「お金はいくらでも払うから」という言葉を聞いてテンションが上がって"日本語っぽく聞こえる英語"で「どういたしまして」と言ったというのが真相です。

そして、この時に先生に教えてもらったのが mnemonic という英単語。上のような語呂合わせなどのように何かを覚えるのを助けてくれるものを意味します。この時に「この頭の mn- はどうやって発音するんやろ」 と疑問に思ったのですが、こういった高校生の時に疑問に思って頭に残っている英単語を大学になってスペイン語ではどう言うかを調べた時に出てきたのがぼくが唯一知っている mn- から始まる単語 mnemotecnia です。

前置きが長くなりましたが、この語頭の二重子音については以下のように説明しています ↓

語頭の mn- はギリシャ語で「記憶」を意味する mnḗmē という語から形成された語彙に見られる

   mnemónico -ca「記憶(術)の」
   mnemotecnia「記憶術」
   mnemotécnico -ca「記憶を助ける」

簡略化された nemónico -ca, nemotecnia, nemotécnico -ca という形も認められている(6.5.2.2.1.3 Grupo mn-)

ギリシャ語はよくこんなに発音しにくい mn- を語頭に持ってきましたよね。
そして、スペイン語ではこの場合のみ m が発音されずに黙字となり [nemotéknia] と発音されます。

余談ですが、気になったので中南米スペイン語の吹替でこのシーンを確認してみると "No toque mi mostacho" と吹き返されていました。いや直訳も直訳!これじゃ本当に意味が分からないですよね(笑)
おそらく、スペイン語に翻訳した人もさすがに英語圏での mnemotecnia までは知らなかったんでしょう。


さて、もう一つの思い付いた ps- は psicología や、あとはこれまた高校時代に衝撃を受けて強烈に印象に残った英単語 pseudonym に見られる pseudo- などに見られますね。これに関しては psico- と pseudo- 以外にも ps- から始まる語彙は存在するようで、、、

語頭の ps- はギリシャ文字 psi の転写から来ており、「霊魂、精神」を意味する psychḗ のようにこのギリシャ文字から始まるギリシャ語彙から形成された教養語に数多く見られる

   psicastenia「精神衰弱(症)」
   psicología「心理学」
   psicomotor -ra「精神運動(性)の」
   psicomotriz「精神運動(性)の」
   psicotécnico -ca「心理学応用技法の」
   psiquiatra精神科医

「偽の」を意味する要素 pseudo- の起源である「偽り」を表す pseûdos に由来

   pseudociencia疑似科学
   pseudofilosófico -ca「疑似哲学の」
   pseudodemocracia「疑似民主主義」

「オウム」を意味する psittakós から形成される

   psitácida「インコ科」
   psitacosis「インコ病」
   psitacismo「暗記を基礎にした教授[学習]法」

疥癬(皮膚の病気)」を表すpsṓra から派生した psoriasis「乾癬」

多くの場合 p- なしで表記される (p)seudo- から始まる語以外は、教養的な使用では語源の表記である ps- の方が好まれている
しかし、スペイン語における通常の発音通りに p を省略した s- のみでの表記も認められている(6.5.2.2.1.5 Grupo ps-)

Ψ, ψ」。これがギリシャ文字psi だそうです。
この文字が存在することによってこの文字から始まるギリシャ語語彙が生まれ、それが他言語へ移った際に p の音が消失したんですね。やっぱり、発音しにくいので消えるべくして消えたんじゃないでしょうか?それにしてもギリシャ人は発音しにくいとか思わなかったんですかね?

pseudo- に関しては英語での記憶が強かったのでずっと p ありが正しいと思っていました。スペイン語ではどちらも正しいようですが p なしの seudo- とする方が好ましいようですね。


さてさて、次に見るのは pn- 。
この組み合わせを見たら、そういえば英語で「肺炎」は pneumonia だったなと思いだします。今年に入って「新型肺炎」のニュースを無数に見てきましたが、どれも nuevo nemonía と書いてあるので、すっかりこの pn- は失念していました。

哲学分野にて「宇宙を形作り、秩序立てる理性的な息吹」という意味で使用されるギリシャ語の pneuma を起源とする教養語の中にこの pn- という組み合わせは維持されている
しかし、哲学分野以外ではより一般的な意味である「精霊、息吹」として使用される

   neumático「タイヤ、空気の」
   neumococo「肺炎球菌」
   neumología「呼吸器病学」
   neumonía「肺炎」
   neumopatía「肺の病気」
   neumotórax気胸

(6.5.2.2.1.4 Grupo pn-)

英語には残っているこの pn- はスペイン語ではなくなってしまったようですね。


次は pt- 。この二重子音で始まる単語なんてあるんでしょうか?

pt- から始める語彙はギリシャ語起源の教養語に見られる

 pterís -ídos「シダ」pteridofito -ta「シダ植物の」
 pretón-「翼」→ ptero- を含む pterodáctilo翼竜
 ptýalon「唾液」→ ptialina「プチアリン」
 Ptolemeoプトレマイオス」→ ptolemaico -ca「天動説の」
 ptôsis「落下」→ ptosis「下垂症」

pt- から始まる語彙のほとんどは科学技術分野での使用に限られているため、教養的使用においては通常、語源通りの pt- という表記が用いられる(6.5.2.2.1.6 Grupo pt-)

科学や技術の分野での用語で使われているとあるように知っている単語が一つもないです。
こう聞くと、プトレマイオスってすごくギリシャ語っぽい名前だったんですね。


そして、残りは gn- と cn- 。
どちらから始まる単語も聞いたことないので、手短にいきます。

語頭の gn- はギリシャラテン語起源の教養語に現れる

(ラ)Gnetaceus「植物の種類」→ gnetáceo -a
(ラ)gnomǐcus「名言風の」→ gnómico -ca「金言の」
(ラ)gnomus「小妖精」→ gnomo北欧神話の小人」
(ラ)gnomon日時計の指時針」→ gnomon
(ギ)gnôsis「知識」→ gnosisグノーシス、神秘的直観」
ドイツ語に由来する gneis「片麻岩」

教養的な使用では語源に則した表記が好まれるものの、語頭の二重子音を簡略化して音声に則した表記も認められている: neis, netáceo -a, nomo, nomon, nosticismo, noseología, etc.(6.5.2.2.1.2 Grupo gn-)

どれも金輪際耳にすることはないような単語です。。。

2、3世紀に地中海地域で盛んであった「グノーシス主義 (gnosis)」という宗教的思想ですが、この単語は語頭の g を省略できないようで、Diccionario panhispánico de dudas によるとその理由は以下です。

哲学的な用語の gnosis とその派生語 gnoseología, gnoseológicog の文字の省略は認められない
それはおそらく nosología「疾病分類学」とその派生語である nosológico という語との混同を避けるためだと考えられる(g. 2.1.3.)

いや、やっぱり金輪際聞かんような単語やないかい。「混同を避けるため」とありますが、そもそもどっちも一般人が使うような単語じゃないので忘れてしまいましょう :)


最後に cn- の項も引用しようとしましたが、gn- と同じで専門用語にしか使われていないようで、さらには gn- と違ってこの cn- の項に出てくる単語はもはや西和辞典には記載されていませんでした。とりあえず、スペイン語には cn- から始める単語もあって、c の文字もまた黙字になるケースがあるということだけ頭の片隅に置いておきましょう。

 

【今回の結論】

● 現代スペイン語では基本的に無声である h に加えて、単語の頭に cn-, gn-, mn-, pn-, ps-, pt- という二つの子音の組み合わせが現れる場合に限って、c, g, m, p もまた黙字 (letras mudas) になり得る。

● これらの黙字は発音はされないため、表記を省略することも認められているものの、教養的な使用においては語源での表記に合わせて省略しない方が好ましいとされる。(ただし、ps- から始める pseudo- のみ p なしの表記の方が好まれている。)


語源での表記を尊重して省略しないというスペイン語の先祖想いな一面を知ることができました。
発音をしないのに綴りに現れる黙字。今回調べてみてムダではないということが分かりました ;)