イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

No sabía que + (Indi.) vs (Subj.)

前回、"No creo que + (Subj.)" vs "Creo que no + (Indi.)" について書きました ↓

sawata3.hatenablog.com

論点はあくまで 「"No creo que..." の後は接続法、"Creo que no..." の後は直説法」ということを前提とした上でそれらのニュアンスの差異を考察しました。
この直説法と接続法の使い分けですが、動詞 creerVerbos de CABEZA に属するので、それが主節で否定される場合は従属節の動詞が接続法となると習ったものです。これでオートマチックに後続する「法」を使い分けられる!!

なんてのは夢のまた夢。100%そうではないようです、残念ながら。。。

 

【きっかけ】

ぼくの好きなスペインドラマ Ministerio del Tiempo でのワンシーン。
Irene が同僚の Ernesto がタバコを吸っているのをたまたま見て「あなたがタバコ吸うなんて知らなかったわ」というセリフ。

 "No sabía que fumaras."

あれ、fumaras なの? fumabas じゃないの?
よく考えてみると、saber は verbos de CABEZA だから否定のときは接続法がくるのか。。。?でも、ネイティヴの人との会話を聞いていると "No sabía que..." の後は直説法を使ってる記憶があるからこそ、上のドラマの文を聞いたときに違和感を覚えたしな。。。

ということで、一度しっかり調べてはっきりさせておこうと思います。

 

【考察】

もちろん今回も RAE より Nueva gramática のお出ましです。

"No oí que me estuvieran llamando por teléfono" という文の中の接続法の出現は、従属節が否定の影響を受ける範囲にあるというマーカーである
話し手はこの例文のように既知情報として表される補語が真実性に疑問符を付ける
"No que me estaban llamando por teléfono" という文における直説法を導く要素は oír という知覚動詞 (verbo de percepción) であり、直説法と否定の間に直接的な関係は存在しない
結果として、従属節は 'lo que no oí(聞かなかったということ)' もしくは 'lo que dejé de oír(聞くのをやめたこと)' を表しており、つまり、本当の情報として表されているものの、 "percibido(知覚されること)" はできなかった状態のことを表している
"Perdone, señora, no sabía que era casada (Morales, A., Verdad)" と言う文には、"No sabía que fuera casada" という接続法を用いた場合と比べて、同様の対比が見られる(§25.7c)

この項で言及しているのは、文中のどの要素が従属節中の動詞の法を決めるかということです。
"No oí que me estuvieran llamando por teléfono" という文では、否定の no が接続法を導いている一方で、
"No que me estaban llamando por teléfono" という文では、知覚動詞の oír が直説法を導いているとのことです。

接続法を用いた例文では話し手は従属節(que 以下の部分 :「電話が掛かってきていたこと」)を疑っていることを表す一方で、直説法を用いた例文では話し手は従属節の内容を事実として認識しているものの、実際にはその時は気付かなかったということを表しています。

引用内の最後の例文は直説法・接続法ともに「ごめんなさい、奥さん、あなたが結婚されていたとは知りませんでした」といった(意味深な)訳になりますが、それぞれのニュアンスは、、、

[直説法の場合]
女性が結婚していることをこの話し手は知らなかったが、何らかのきっかけで知った話し手はそのことを事実として受け入れている

[接続法の場合]
話し手はその事実を知った後でもなお、その女性が結婚しているという事実を疑っている(もしくは信じたくない??)

と言った感じでしょうか?
次の引用部では、接続法が用いられた際のニュアンスについて言及しています。

否定によって導かれた接続法を含む名詞従属節では、文の補語の内容の真実性が疑問視されるが、全体として主節の表す内容の真実性もまた疑われる
その結果、前出の例文が "Si me estaban llamando por teléfono, no lo oí" のような条件文での言い換えが可能となる
このような言い換えは直説法を含む従属節では起きない(§25.7f)

"Si me estaban llamando por teléfono, no lo oí"
「もし私に電話が掛かってきていたのなら、私はそれを聞いていない」

ここで大切なのは、接続法が用いられた文は条件文に置き換えられるけど、直説法の文ではそれはできないという点です。

"No oí que me estuvieran llamando por teléfono" と "No oí que me estaban llamando por teléfono" という文。
日本語ではともに「電話が掛かってきていたことを聞いていない(聞こえなかった)」となり、そのニュアンスの差異を訳出するのは少々困難です。しかし、接続法を用いた文は条件文にできるということは「電話が掛かってきていたことを聞いていない」と言っているこの話し手はその事実(=「電話が掛かってきていたこと」)を認めていないということです。
つまり、記憶を遡ってみても、電話の音を聞いていないから自分に電話が掛かってきたという事実はない、と話し手は思っているということです。なので、「私に電話が掛かってきた事実はない。だが、"もし仮に" 私に電話が掛かってきていたとするならば、私はそれを聞いていない」といった風に、「電話が掛かってきたこと」を事実として捉えていないからこそ条件文として「"もし仮に" 私に電話が掛かってきていたとするならば、、、」と言い換えることができるんじゃないでしょうか?

すなわち、接続法を使用するということは、従属節(ここでは「電話が掛かってきていたこと」)の内容を話し手は疑っている、ということになります。

さらに同項の後半部分では ↓

verbos de percepción(知覚動詞)や verbos de poseción o adquisición de conocimiento(知識の所有もしくは獲得を表す動詞)が主節の動詞として現れる文脈における直説法選択の拒否は、それらの主節動詞が現在形で用いられる際の補語節の真実性の仮定と関係がある
そのため、"No sabemos que tenga problemas económicos" や "No veo que te quede grande la camisa" といった文の中では接続法が唯一の選択肢となる
仮にこれらの文章で直説法が用いられた場合、主節において「偽」であると見なされたものを従属節にて肯定する、という点において理論上必然的な矛盾に陥ってしまう(§25.7f)

"No sabemos que tenga problemas económicos"「私たちは彼が金銭面で問題を抱えているとは知らない」という現在形の文を過去形として考えてみると、
"No sabíamos que tenía / tuviera problemas económicas" のように主節動詞が過去形の場合、知らなかった内容を事実として認める・認めないにかかわらず、発話時点では従属節の内容を認知はしているということになります。(「〇〇を知らなかった」と言うということは、この文を発話した時点で「その〇〇について知っている」ということになるため。)

しかし、主節の動詞が現在形の場合は、「私たちは彼が金銭面で問題を抱えているとは知らない」といったように、発話時点でその事実を知らない(=認知していない)ということになり、そもそも従属節の内容を事実として認める・認めないという点は争点となりえず、むしろ、その内容を認める・認めないという議論は、前提の事実(従属節の内容 : ここでは「彼が金銭面で問題を抱えていること」)を知ってから初めて始まる、という解釈でいいのではないでしょうか。

これがこの項で言及されている「理論上必然的な矛盾 (contradicción lógica)」だとぼくは考えます。


さらに、接続法を選択した場合の話し手のスタンスについては、

接続法の出現は話し手がその発話内容の真実性を約束しないというサインであり、事実か否かについての議論は保留としている、と解釈する識者もいる
それらの文では、言及されている状況が真実か否かについて知ることはない(もしくはできない)
しかし、その文脈からそれらの事実が実際に何度か起きている、ということを推測することができる
"No sabía que tocaras el saxofón" という文では、'Lo tocas' ということを間接的に意味している(§25.7g)

これまでにも述べた通り、接続法を用いた文では話し手はその発話内容が事実かどうか、真か偽かということについては不確かということですが、"No sabía que tocaras el saxofón" という文を発話することによって、話し手は「(君が)サックスを吹く」ということを -個人的に事実として認める・認めないに関係なく- その件を暗に示していることになります。

すなわち、「君がサックスを吹くなんて知らなかったよ」という文を話し手が発言するということは、相手(ここでは「君」)が「サックスを吹く」という事実が存在する、もしくはその件をこの話し手が知ったということになりますよね。
おそらく直説法を用いても同じことが起きると思いますが、あくまで論点は話し手が "Lo tocas" を事実として認知するかしないかにあります。


ここでドラマ Ministerio del Tiempo 内での Irene のセリフに置き換えて考えていきます。
"No sabía que fumaras." では接続法が選択されているため、Irene は実際に Ernesto がタバコを吸っている瞬間に立ち会ったものの、それでもまだその事実(彼がタバコを吸っているということ)を認めることができない、といったニュアンスを表しているということになります。

実はこの Irene と Ernesto は長年同僚として一緒に働いていたのですが、Irene は一度も Ernesto がタバコを吸っているところはおろか、その素振りさえ見たことがなかったので、その瞬間を目の当たりにしてもなお、彼がタバコを吸うということを信じられなかったのかなと思います。
そういった背景があっての接続法の選択なのかもしれませんね。


また、他の例として、ネイティヴの友だちが言ったセリフがこちら ↓

"¡No me había dado cuenta de que había un bar aquí!"
「ここにバルがあったなんて気付かなかった!」

よく通る道を歩いててふと気付いたときのセリフです。この文でも直説法 (había) と接続法 (hubiera) のどちらの選択も可能です。
頻繁に通る道なのに今の今までそこにバルがあったことに気が付かなかったなんて、と彼は自分の目を疑っていましたが、この発言の瞬間には実際バルを目の前にしているので、「ここにバルがある」という事実を否定する、もしくはその事実に疑問を持つとは考えにくいので、こういった状況では接続法は表れにくいのではないのでしょうか。

 

【今回の結論】

● "No sabía que..." の後に「直説法」が来る場合、話し手は que 以下の内容を認知しており、それを事実として認めている。

● "No sabía que..." の後に「接続法」が来る場合、話し手は que 以下の内容を情報として認知はしているが、それを事実としてはまだ認めておらず疑っている。


最後に。
前回も言いましたが、文法的に理解した上でニュアンスの違いを言い表すことに言語、特に外国語を学ぶ意義があるとぼくは考えます。
「接続法は疑問や非確信な要素を表す」という説明をよく耳にします。
今回のテーマに関しては、"No sabía que..." に直説法・接続法ともに後続することが可能だからこそ、その違いを明確にしようと試みました。実際、端的に述べると上のカッコ内の説明で事足ります。
しかし、接続法に関するすべての事象をその説明で済ますことはできないはずです。それをし始めたら、もはやこのブログはブログの域を超えて論文の域に、、、それも辞さない覚悟で、接続法に挑んでゆけたらと思います :)

と言いながらも、ゴリゴリの文法のテーマがこうも続くと RAE の文法書を読み漁ることにも記事を書くことにも疲れて、、、

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ゴリだけに。。。

という境地に再び至るかもですが。。。
兎にも角にも、これからも RAE にお世話になりながらやっていきます ;)