イスパニア語ブログ

FILOLOGÍA ESPAÑOLA

接続法¿"未来"? (i)

「明日会った時に渡すね」

昔、日本語を勉強しているスペイン人の友だちに、「どうして未来の話をしてるのに、『会った時に』って過去形なの?」と質問されたことがあります。日本語ネイティヴのみなさんは説明できますか?
ぼくは「エッ。。。タシカニ。。。」と情けなくつぶやくことしかできませんでした。

調べてみると、
「明日会っ時に渡すね」のように過去形の「た」を用いるのは、「渡す」という動作が行われるのが、「会う」という動作が完了した時(もしくは完了した後)であるからのようです。時間的順序は

 「会う(従属節)」→「渡す(主節)」

ということです。「会う」も「渡す」もともに明日(つまり未来)に行われる動作ですが、主節の「渡す」という行為がなされる時点から見ると、「会う」という行為は時間的に前となります。すなわち、「会う」という動作が完了した後に「渡す」という動作がなされるということで、「渡す」から見たら「会う」は『過去』と見なすことができます。
このような捉え方をすれば、「明日会っ時に」という未来の話の中に過去形の「た」が現れるのも納得できますよね。(もしかしたら、「完了形」と言った方が正しいかもしれませんね。)


ぼくはこの日本語文法を知った時に、スペイン語の「"antes de que" の後には必ず接続法が出現する」というルールが頭に思い浮かびました。
例えば、「夜が明ける前に目が覚めた」という文はスペイン語で "Me desperté antes de que amaneciera" となりますよね。主節の「目が覚めた」というのも従属節の「夜が明ける」というのも発話時には過去に実際に起きたこととして認識しているはずです。
「目も覚めた」し、「夜も明けた」というのは過去の事実なのに、なんで "antes de que amaneciera." のように実際に起きたことに対して接続法が使われるのか、とこの用法を習った時に疑問に思いました。

実は、ここでも上の日本語の話と同様に、主節と従属節の時間的順序がものを言います。
「目が覚めた」という動作が完了した時点から見ると、「夜が明ける」という出来事は時間的に先行したものです。つまり、時間的順序は

 「目が覚める(主節)」→「夜が明ける(従属節)」

となります。
上の日本語の話とは反対に、こちらは主節が時間的に前にあります。この「目が覚める」という主節時点から見たら、「夜が明ける」という従属節はまだ起きていないですよね。つまり、主節から見れば従属節は「未来」となります。
こうなると、例えば "¿Qué quieres ser cuando seas mayor?"「大きくなったら何になりたいの?」のように未来を示す時に接続法が用いられるのと同じで、主節から見て、まだ実現されていない従属節「夜が明ける」にも接続法が用いられます。この理屈で、「"antes de que" の後には必ず接続法が出現する」というルールが説明できます。

日本語の「未来なのに過去形」とスペイン語の「実現した過去なのに "antes de que" 後の接続法」という一見全く共通点など見当たらない二つの文法話しですが、こうして考えてみるとどちらも「主節時点から従属節を捉えている」という点で類似してると言えませんか?


最初の話に戻りますが、未来のことを言う文の中で過去形「た」が来る理由を聞かれて、ぼくは情けなく狼狽えることしかできなかったし、おそらく日本人でも日本語文法を勉強していなければ説明するのは難しいと思います。
「なんで日本語ネイティヴなのに説明できないの?」なんて言われたって困ります(笑)
そんな時は「じゃあ、実現したことなのに "antes de que" の後に接続法が来るのなんで?」って言い放ってやってください。スペイン語文法を勉強していなければ、スペイン語ネイティヴだろうともちろん明確な説明はできません。
実際、この友だちにこの質問を投げ返してみると、ぼくが質問されて狼狽えた時と同じくらい狼狽えてました(笑)

さて、前置きだけで一本の記事になりそうな話が終わったところでようやく今日の本題に入ります。
今回はタイトル通り、「接続法"未来"」についてです。

 

【きっかけ】

スペインの大学の授業で、スペイン語文法が専門の先生が言っていたことで鮮明に覚えているものがあります。

"El subjuntivo es más sencillo que el indicativo."

この先生によると、(完了形は置いておいて)直説法は現在・点過去・線過去・未来・過去未来といった5つの時制があるのに対して、接続法は現在形と過去形の二つのみ。
直説法には時制を無視した用法(例えば、"¿Dónde estará Juan?" という文の "estará" は文法的時制は直説法未来ですが、意味としては「現在の推量」を表す, etc.)などもあり、時制だけでなく、用法でも区別するとさらにその数が増えます。
一方で接続法はというと、接続法現在は直説法の現在・未来、接続法過去は直説法の点過去・線過去・過去未来に対応するため、その使い方は直説法よりもずっとシンプルである、と。

直説法の点過去と線過去は非ネイティヴにとっては使い分けが難しいものですが、いざ接続法となると使い分けなどなく、「過去なら(接続法)過去形を使う」という易しいものです。
これらのことから、この先生は「接続法は直説法より簡単」という考えをお持ちでした。最初は非ネイティヴの気持ちが分かっていない"ネイティヴの暴論"のように感じましたが、この話を聞くと、なるほど理にかなった説を説いていたんだな、とあの時の自分を恥じるのみです。

ただ、そうは言ってもやはり日本語に存在しない「接続法」という概念はなかなか掴みどころがなく、いつまでたっても芯を食った使い方ができているのかを疑問に思います。
おそらく、この感覚は外国の人が日本語の「は」と「が」の使い分けに苦しむのと似ているのかなと思ったり。


さて、そんな接続法ですが、直説法とは異なり「接続法"未来形"」というものが見当たりません。
例えば、「小さい頃、大きくなったら何になりたかった?」というのは "¿Qué querías ser cuando fueras mayor, de pequeño?" のように、過去の話をしているので接続法"過去"が来ますよね。
他方で、「大きくなったら何になりたいの?」という場合は "¿Qué quieres ser cuando seas mayor?" と接続法"現在"が来ます。接続法を初めて学んだ時は、未来の話をしているのでシンプルに「接続法"未来形"」があれば分かりやすいのにと思ったものですが、「接続法"未来形"」なるものはないので接続法現在を用いますよね。

しかし、スペイン語学の中で接続法を学ぶ際に「接続法未来」という存在をどこかで教わると思います。ただ大抵の場合、「昔は使われていたけど現在はほとんど使用されていないから知らなくても問題ない」という風にその存在だけほのめかされて、過去の遺物だからと言わんばかりに説明がなされることはほとんどありませんでした。
今回は、そんな"ほぼ死んだ化石"と化してしまった接続法未来にスポットライトを当ててみたいと思います。

 

【考察】

過去の遺物となってしまった接続法未来形ですが、Nueva gramática にはもちろん記述があるのでご心配なく。しかも、§24.3 では丸々接続法未来形が主役です!
では早速見ていきましょう。

まずは、こちらの接続法未来形の隆盛と衰退について ↓

接続法未来形 (el futuro simple de subjuntivo) は14世紀からその活力を失い始め、16世紀後半にはその使用頻度が相当減少し、バロック時代‹1›にはほとんど完全に失われた
しかし、ラテンアメリカのいくつかの地域のスペイン語では依然として書き言葉では一般的である
20世紀に入るまで、文法学者は偶発性や憶測を表すために接続法未来形を使用することを薦めて続けていたが、少しずつ接続法過去形 (el pretérito imperfecto de subjuntivo) に取って代わっていき、現代の話し言葉で使用されなくなってからは直説法現在形と取って代わった(§24.3e)

‹1› バロック時代 ... 美術・音楽・建築など分野によって多少の際はあるようですが、ここでは16世紀末から18世紀とします。

今では全くと言っていいほど見られない接続法未来形が、スペイン語の歴史においてその活力をほぼ完全に失ったのがバロック時代。仮に18世紀末ごろだとすると、今から200年ほど前になりますね。
「近いようで遠い」、いや「遠いようで近い」か。。。?

先に言っておくと、この接続法未来形がいつからスペイン語で使用されるようになったかについての情報は今回見つかりませんでした。なので、スペイン語の歴史の中でどのくらいの期間、使用されていたかはわかりません。ただ、「14世紀からその活力を失い始め」とあるように、どんなに短く考えても、少なくとも14世紀には存在していたということになります。となると、接続法未来形が使われていた期間の方(14世紀 - 18世紀)が、ほとんど使用されなくなってからの期間(18世紀 - 現代)よりも長いということです。

こんな風に考えてみると、ある言語内で一つの文法が"消えた"のが200年前というのは、やっぱり「遠いようで近い」と感じます。(これはぼくの中で言う「言語学的ロマン」です :) )


さて、次に進みましょう。

接続法未来形は現代では法律、法規、規則または公的性格を持つ文書で見受けられ、擬古的な言葉遣いとされる
Cuando estuviere separado por sentencia firme si fuera culpable [...] (Pérez/Trallero, Mujer)(§24.3f)

「接続方未来形は法律などで使われている」という説明もうっすら聞いたことがあります。やはり、現代では使われることはなくなった文法のため、古めかしい響きがするようですね。

他にも、使用される場面があるようで ↓

Si así no lo hiciereis, Dios y la patria os lo demanden. のような儀式的な文句においても接続法未来形が出現する
この形はメキシコ国家にも出現する (Mas si osare un extraño enemigo / profanar con su planta tu suelo...)
ことわざや定型句でも使用されることがある (Adonde fueres, haz lo que vieres; ¿Y ahora, qué es lo que sucede? La carreta, o lo que fuere que me transportaba, se ha detenido (Quintero, E., Danza))(§24.3i)

「ことわざで使われる」という説明も聞いたことありますが、実際のところ、"Adonde fueres, haz lo que vieres"「郷に入りては郷に従え」以外で接続法未来形が含まれていることわざを教えてもらったことがない気が。。。
こと諺においては、"Adonde fueres, haz lo que vieres" の一強状態のようですね。

あと、メキシコ国歌でも使われているのが興味深いですね。
調べてみると、メキシコ国歌の誕生は1854年。つまり、19世紀半ばだそうですが、どういう経緯で接続法未来形が使われたのでしょかね??気になります。
上で、「バロック時代(16世紀末から18世紀)にはほとんど完全に失われた」とあったので、確実に何かしらの理由はあるはずですが。国歌ということで、荘厳で崇高な雰囲気を醸し出したかったのでしょうか?
もしくは、10世紀に編纂された古今和歌集を起源に持つ日本の「君が代」と同じく、過去の作品などに由来してるのでしょうか?誰か知ってる人がいたら教えてください :)

 

【次回】

さてさて、ここまではいつも通り、Nueva gramática から関連する記述を見てきました。
ですが実は、CiNii Articlesで「スペイン語の接続法未来形について」というドンピシャなテーマの論文を見つけました。現代では使われないこの形について今後考えることもないと思うので、接続法未来形への"手向け"として、本腰を入れてこの論文を読んで勉強してみようと思います!

ですが、長くなりそうなので今回はここで一旦終わりとします。
次回、論文の方を見ていきます。